ゲド戦記の黒幕クモの正体と性別の謎!原作に隠された衝撃の結末
ゲド 戦記 クモ 正体をめぐる議論は、劇場公開から長い歳月が流れた今なお、アニメファンの間で尽きることがない。東宝配給で封切られたスタジオジブリ制作の長編『ゲド戦記 (映画)』は、アーシュラ・K・ル=グウィンの傑作ハイ・ファンタジーを原案としながらも、独自の死生観と陰影を色濃く反映させた異色作として知られる。なかでも観客に鮮烈なトラウマと疑問を残したのが、紫の衣をまとい、死を極限まで恐れた謎多き魔法使い・クモの存在だ。
テレビの「金曜ロードショー」での再放送やNetflixでの世界配信をきっかけに、改めてゲド 戦記 クモ 正体の深層や設定の裏側へ関心を寄せる視聴者が急増している。なぜクモはあれほどまでに生へ執着し、世界を破滅の淵へ追い込もうとしたのか。声優を務めた名優・田中裕子の怪演とともに、日本のアニメーション史に刻まれた怪物の真実を紐解いていく。
性別は男か女か?田中裕子の怪演が宿した「両性具有」の不気味さ

映画を初めて観た者がほぼ例外なく抱く疑問が、「クモは男性なのか、それとも女性なのか」という点だろう。白塗りの中性的な顔立ち、妖艶に波打つ長髪、そして胸元を覆うドレープドレスのような衣服。視覚的な情報だけを追えば女性のようにも映るが、劇中では周囲から明確に「彼」と呼ばれている。
スタジオジブリのアニメーション版におけるクモ (ゲド戦記)は、意図して「性別の境界を曖昧にした存在」として造形された。その不気味さを決定づけたのが、俳優・田中裕子の声の演技だ。低く艶やかでありながら、どこか冷たく虚無を孕んだ声音。男声とも女声とも断定しがたいその響きが、肉体の衰えや死を拒絶して人間を超越しようとした狂気を生々しく浮き彫りにした。
一方、アーシュラ・K・ル=グウィンの原作小説におけるクモ(コブ)は、明確に男性の魔法使いとして描かれている。映画版があえて両性具有的なアプローチを採ったのは、生と死、男と女、光と影といったあらゆる「世界の調和」から逸脱してしまった異形の哀しさを際立たせるための演出意図だったといえる。
ハイタカ(ゲド)との浅からぬ因縁――かつて犯した「禁忌」とは何か
大賢人ハイタカ (ゲド)とクモの間には、過去に起きた決定的な衝突が存在する。映画の劇中ではわずかな会話でしか触れられないが、クモはかつて禁断の魔法に手を染め、ゲドによって厳しく罰せられた過去を持っていた。
彼が犯した禁忌とは、死者の霊を現世に呼び戻し、生と死を隔てる壁を強引にこじ開ける「降霊術」だった。ル・グウィンが構築した多島海(アースシー)の世界において、生と死はコインの裏表であり、死を受け入れることこそが命を循環させる大原則である。しかしクモはその均衡を金銭や見世物のために冒涜した。
若き日のゲドにその罪を暴かれ、黄泉の国への道を無理やり見せられたクモは、死の暗闇に対する絶対的な恐怖を骨の髄まで植え付けられた。ゲドへの深い憎悪と恐怖。それがクモをさらなる狂気へと走らせる引き金となったのだ。
『ゲド戦記』最大の謎である黒幕・クモの正体とは?不老不死に執着した真の目的

『ゲド戦記』最大の謎である黒幕・クモの正体とは、かつてロークの学院で正統な魔法を学びながらも、「己の死」という絶対的真理を受け入れられずに堕落した元大魔法使いである。彼が不老不死に異常な執着を見せた真の目的は、世界征服のような俗っぽい野望ではなく、ただひたすらに「自分が無に帰すことへの根源的な恐怖」から逃れるためだった。
クモは死を回避するため、生者の世界と死者の世界の境にある「扉」を完全に開け放った。その結果、世界の「均衡(バランス)」は崩壊。作物は枯れ、家畜は死に、人間は正気を失い、魔法使いは魔法の言葉を忘れるという未曾有の災厄が引き起こされた。クモにとって他者の命や世界の存続などどうでもよかった。自分が永遠に生き続けること、その一点のためだけに世界を道連れにしたのである。
永遠の命を手に入れたと信じ込んだクモの肉体は、皮肉にも生きながらにして腐敗し、ドロドロとした黒い影のような怪物へと崩壊していく。死を拒絶した者がもっとも醜い死そのものの姿へと変貌していく展開は、本作における最大の皮肉であり衝撃のクライマックスだ。
宮崎吾朗監督とスタジオジブリが描いた「影」のメタファーと原作の差異
宮崎吾朗監督がメガホンをとった映画版は、原作第3巻『さいはての島へ』をベースにしつつ、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』やユング心理学の要素を大胆に融合させている。ここで重要な役割を果たすのが、主人公アレンとクモの対比構造だ。
アレンは自らの心の闇(影)から逃げ出すあまり、生きる実感を見失い、父王を刺すという凶行に走った。対するクモは、死を恐れるあまり自らの影に呑み込まれ、命の価値そのものを否定した。つまりクモとは、「死を恐れるあまり生の輝きを見失った人間」の成れの果てであり、アレンが陥りかけた破滅の未来像そのものだったのだ。
ル=グウィンが描いた原作の哲学的で静謐なバランス論に対し、ジブリ版は「命を大切にしない現代人への警鐘」という極めてストレートで生々しい人間ドラマへと焦点を絞り込んだ。このアレンジこそが、公開当時の賛否両論を呼びつつも、今なおカルト的な引力を持つ理由となっている。
原作小説『さいはての島へ』におけるクモの悲惨な末路と結末の真相
映画版のクライマックスでは、竜の正体を現したテルーの炎によってクモは焼き尽くされ、光のなかで消滅する。しかし、原作小説『さいはての島へ』に記されたクモ(コブ)の末路は、これよりも遥かに陰惨で救いがない。
原作におけるクモは、死者の国の黄泉平坂で、もはや肉体も言葉も失った哀れな亡霊として這いずり回る。不死を求めて死の国を開いたはずが、そこには永遠の虚無と暗闇しか存在しなかった。ゲドは彼を力でねじ伏せるのではなく、ただ静かに世界の裂け目を閉じ、クモを本来あるべき「完全な死」へと送り届ける。
そしてゲド自身もまた、その扉を閉じるために己の持つすべての魔力を使い果たし、ただの老いた男となって旅を終える。派手な魔法戦で決着する映画とは異なり、原作の結末は静かな喪失感と、自然の摂理が取り戻された厳粛な安らぎに満ちている。
現代に響く死生観のリアリティ――ハイ・ファンタジーとしての真価
2006年の公開当時、映画『ゲド戦記』はその難解なテーマ性や原作からの大幅な改変ゆえに激しい議論を巻き起こした。しかし、混迷と不安が日常化した現代において本作を見返すと、クモというキャラクターが放つ不気味なリアリティはむしろ増している。
死を恐れ、老いを拒み、終わりなき生の継続を貪るクモの姿は、決して架空のファンタジーの住人にとどまらない。限界を忘れて肥大化し続ける現代社会の欲望そのものを映し出す鏡のようだ。「死ぬことが分かっているからこそ、命は大切なんだ」というテルーの言葉が胸に刺さるのは、私たちがどこかでクモと同じ恐怖を抱えながら生きているからに他ならない。
日本のアニメーションが挑んだ重厚なハイ・ファンタジーの試みとして、そして人間の弱さと狂気を極限まで煮詰めた悪役像として、クモの存在はこれからも語り継がれていくだろう。 (出典: ゲド 戦記 クモ 正体(Yahoo!ニュース))